毎日自分史上最高!

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「働く」ということ

 

自分が「教師」として働くこと、

働いてもいいことなのか、良くわからなくなってきている。

 

確かに子どもは好きだし、1~3年間の長期スパンでその成長を支えて行くことができることにも魅力を感じる。

すぐに成果が出る仕事ではないからこそ、子どもが「できる」ようになった時、何かを「達成」した時、大きな喜びと達成感を味わうことができるだろう。

 

大学院の講義で報告担当になったために、たまたま出会った本には、

生徒が言語活動を通して主体的に学ぶことから形成される学力は役に立たないものとして葬り去られているのではないか。それは教育の敗北ではないか。

(G・ディダクティカ編『教師になること、教師であり続けること』,pp.167  l.11-12)

と、書いてあった。

この章は教師たち自身の実践と語りから、学校が要求されている制度的要請(高等学校における受験体制がメインでした)と教師自身がもつ教育観とのジレンマについて述べられていた。

 

 この章では、実践者の先生が作り上げた授業スタイルがうまく、現代における入試の問題傾向に合致していて、まさしく

「受験だけの学び」ではなく、「受験にも生かせる学び」となっていた。

先生自身の大学院での学習経験や、入試問題の傾向の把握が「豊かな実践」につながったのだと考えられるし、私もこんな授業を受けていれば、もっと国語が好きになったのではないかという素晴らしい実践だった。先生の教育観自体が「主体的な学び」を大切にしたものであって、「文化相対主義」の評論文を読んで概念理解から始まり、自身のこととしてとらえなおして作文を書くという行為。

自分の教育観を貫いた、という点がかっこよすぎる!!!!!

 

 

さてさて、自身が研究者として関わって英語教育に置きかえてみるとしよう。

文部科学省が目指している力は、こんな感じ。

外国語を通じて,言語や文化に対する理解を深め,積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り,聞くこと,話すこと,読むこと,書くことなどのコミュニケーション能力の基礎を養う。 (現行の中学校学習指導要領 第8章外国語編 より)

コミュニケーション能力の育成

 

 

コミュニケーション能力。。。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ダレカ ミニツケカタヲ オシエテクダサイ。。。」(笑)

 

自分の教えている感覚だと、子どもたちは次から次に増えていく語彙や文構造を

定期テストや入試のために”

塾にまで通って、頭に詰め込んでいっているだけで、授業の中でコミュニケーション能力が養われているかといえば、疑似的なコミュニケーション活動にもなっていないような、教科書本文をペアワークで音読させるといった、なんともモチベーションが上がらないお勉強をしているような気がする。

 

確かに日本では英語を使う機会なんてそうないし。

思春期の子どもたちだから、照れくさいのも重々承知だし。

ああ、どうすればいいのだろうね。

 

私は決して英語一辺倒で行くことが正しいとは思っていないけれど、英語をなぜ「公教育の中で」学ぶのか、その目的がはっきりしないままに教育として成り立たせられているのが、不思議で仕方ないです。

 

それをはっきりするのが自分の研究なのだけど。。。

頑張らんばたいね。(もうすぐ、国際学会のAbstract提出日)

 

 

こんな自分色が強くて、果たして学校教育の檻の中で、やっていけるのか不安で仕方ないんだけど、これを捨てたら「自分が教師として働く意義」がなくなると思うので、うまく折り合いをつけれるような教え方を考えようと思います。

 

 

朝から、たわごとをお許しください。。

では。